青春時代(その2)

ボクは前回どのようにしてボクの初恋が終わってしまったか書きました。ボクは当時宗教に対して決していい印象は持っていませんでした。これはどんな宗教に対してもです。仏教もキリスト教イスラム教はもちろん新興宗教は特に苦々しく思っていました。
当時ボクは小説をたくさん読んでいましたが、彼らの中に信仰心のあったのは遠藤周作武田泰淳ぐらいだったでしょうか・・。三島由紀夫の「金閣寺」にあるように僧侶たちに幻滅しておりました。その考えは今もほとんど変わっていません。
しかし、世の中にはクスリよりも宗教の方がいい人がかなりいます。それは認めざるをえません。それで精神の安寧をえられる方がいます。でも、心が素直で信じやすい方でないと無理かも知れません。ボクなど疑り深いのでダメですね。クスリだって何々に効くといってもやっぱり効かなかって、消えていったものもありましたからね・・・。そのような意味でやたらたくさんの寄付がいるとかつまらないツボが何十万円もすると言ったことがなければ、それなりに社会の役に立つかも知れないです。でも、もう昔のように本当に人を救う宗教はなくなりつつあるのかも知れないです。そうでないとこの自殺の多さは説明できません。宗教間の対立もなく共存出来る宗教がいいですね。タブーの宗教について多くは語れません。、当たり障りのないことのみ書きました。気分を害されたらすみません。
今日はボクの高校2年生の時にあったボクにとっては衝撃の出来事について書いてみます。このことは今までほとんど封印してきました。でも、随分昔のことになりましたので、実名で書かせていただきます。
高校1年生の時ボクの成績は決してよくはなく、50人のクラスで20番ぐらいだったと思います。それが高校2年になり、ボクの隣の机に小さな体格ですがやや頭の大きな中島君という奴がいました。彼は高校1年で入学する時高知県からやって来てトップの成績でで入学していました。ですから彼は特待生であり授業料など免除されていました。入学後の彼も優秀で何時も学年でベスト3に入っていました。その彼がボクの隣に座っているのです。ボクに話しかける時も大きな瞳をキラキラさせて話します。そして彼の英和辞典も和英辞典も古語辞典も使いつくされていました。ボクのきれいな辞書とは比較になりませんでした。ボクは重たい辞書は持って行かずに小さな辞書だけを持ってゆきました。
でも、彼に刺激を受けたボクはナップサックに毎日大きな辞書を入れてカバンには教科書などを入れて通学するようになりました。ボクは彼と話す度にその知識の差に驚き、刺激を受けました。ボクの成績も急速によくなっていきました。そして1学期が終わり、夏休みには東大を目指していた中島君に追いつきたくて必死に勉強しました。ボクにの辞書もだんだん汚れてきました。(少し無理矢理汚くしたところもありました)
夏休み明けの最初の実力テストでボクは飛躍的に成績が上がりました。まぐれでも嬉しいような成績でした。もちろん中島君にかなり近づきましたが、まだ彼にはまだまだでした。でもクラスでは彼に次いで2番までになりました。中島君は学年での成績がベスト10から外れていました。ボクが友達では刺激が足らなかったのかも知れません。確か8クラスぐらいありましたから同学年は400人近くいたと思います。そのうち女子は60人ぐらいだったと思います。
2学期の初めの試験のあと中島君が休みました。2日ぐらいして来たので「どうしたん?」と聞くと、彼は「しんどくて起きれなかった・・・」と言っていました。それから1週間ほどしてまた彼は休みました。2日しても来ないのでボクはずっと遠回りになるのですが、彼の家を訪ねました。アパートの1階が彼の家でした。夕方なのに電気もつけずに彼は部屋に一人いました。顔色が少し悪かったんですが病気ではないように見えました。彼の家は両親が川崎重工で働いていて、帰ってくるのは暗くなってからと言っていました。ボクは彼がボクのノートを写すのを待つ間、いろいろ話しかけていました。「九州の修学旅行は楽しみやね。必ず一緒に行こうな。」なんて話したのだと思います。この修学旅行のために、ボクは父親にカメラを買ってくれるように頼んでいました。今のようにたくさんの種類はなく一眼レフは少ししかなかったのです。でも、当時はまだ高く無理を言ったと今は後悔しています。
そして、翌日も中島君は来ませんでした。ボクはまた帰りに寄り、ノートを写すまで彼と一緒に話しました。そして彼は翌日登校していました。一安心です。彼と親友になった気がしました。
イヤなことに、修学旅行の前にもう一度テストがあるとのことでした。
そして中島君は1週間のうち2日か3日だけ来て、多くの日は休んでいました。ボクはしばしば彼の家に行きました。そしてノートを写す間にいろいろ話しました。彼は修学旅行に行きたくないというのです。当時は今のJRの「希望号」という修学旅行専用の列車で九州に向かうのでした。彼は旅行の小遣いもないし、革靴もないので行けないと言いました。ボクは黙ってしまいました。でも、「小遣いはたくさんは持ってゆけないし、靴だって運動靴でいいやん。ボクも運動靴で行ってもいいよ。」と言いました。彼は「そんなことしなくていいよ。一度親に言ってみるよ。」と言っていました。
その日の帰る道々、ボクはいろいろ考えました。ボクはカメラはもういらないと言おうと思っていました。中島君の話を聞けばボクは小遣い持って修学旅行に行けるだけましなんだなと思っていました。そして家に帰り母親にカメラはいらないと言いました。
そして翌日も翌々日も中島君は欠席でした。旅行も近づくし、先生からの伝言もありましたので、中島君を訪ねました。彼は家にいました。勉強していました。ボクはノートを写す彼に「旅行、どうする?」と聞くと、「わからない」と答えました。ボクは「もうすぐ試験があり、この手紙にたぶん書いてあると思うけど範囲はないんや。でも、この試験が終わるとすぐに修学旅行だからなるべく一緒に行こうよ。列車の席もボクの前が中島君になっているよ。窓際だよ。」と言いました。彼の心は少し動いたようでした。でも、その翌日も彼は来ませんでした。
試験が近づいて来ていましたので、ボクが中島君を訪ねるのも2日に1回ぐらいになりました。(つづく)